[倫理学][道徳]18. 対話の倫理学

 法は「そもそも遵守すべきだと判断したから守る」ということでその道徳的正当性が確保されます。「放棄にあるから守る」のではそこに道徳性はありません。道徳の正当性を主張できる場面は良心を根拠にして説得することができる場合に限られます。内容によっては共有されるものとは限らず、道徳の正当性を主張する前の段階の基盤を整備する必要が出てきます。
 その場合に、対話が有用である場面が発生します。対話を行う根拠として、事実や未来の結果やルール、権威のような現前する事実としての性格を有していること(現事実性)から先の根拠へと進み、ワンランク上の規範を求めるべきだということが挙げられます(ちなみに、権威を持つ者[権威者]は、自分が自律的で権威を持っていると判断します。しかし、それ故に他人のしていることにすがるのは自己の自律を破壊するものとして拒否することがあります)。

18.1 対話の前提――義務論理学
 20世紀の哲学では、ローティが言及するような言語論的転回が発生しました。即ち、「意識の基準が先にあり、そこから言語を展開する」という考えが、「言語の領野と物を考える領野は実は同一である」というように考え方が変わっていきました。この考えでは物を考える領野から外の領野はありません。ヴィトゲンシュタインが言うように「語りえないものは沈黙しなければならない」のです。
 この考えを倫理学的に応用したものがフォン・クリフトに代表される義務論理学です。義務論理学は可能・不可能・必然という論理学の概念に対応して、許されている・許されていない・命じられているという義務論的な概念を扱い、義務に関して正しく判断するにはどうしたらよいかを語ります。しかし、いかに行為すべきか、何をすべきかについては直接に語りません。

18.2 討議による道徳規範・合意の根拠づけ
 討議による根拠づけは、究極的・絶対的な真理の前提を断念することを前提にします。究極的な真理がある場合は、討議の必要性が存在しないからです。

18.2.1 道徳規範をいかにして問うか――シュヴェンマー
 シュヴェンマーは主観を超えた(超主観的)討議を主張しました。つまり、ルール自体は客観的ではないが、超主観的なルールが見つかったら、それに合わせるように自分を変えねばならないことを要求します。「自分は変える気がある」という前提がなければ討議することはできません。以下、その討議の考えを示します。
 A、B、Cの3人の意見が対立している場合を想定します。まず、超主観的な討議を行うために、A、B、Cは自分の持っている全ての利害関心を表明します。例えば、3人が次のように表明するとします。

A:「携帯電話は便利だから電車の中でも使いたい。」
B:「携帯電話は電車の中で使われると嫌だ。不愉快だ。」
C:「私は心臓ペースメーカーを使っているので携帯電話は怖い。」


対話の倫理学(討議中)

 3人が皆、広義の幸福を求めていることは共通しています。次に3人とも自分の利害関心を存分に語った上で、3人で行為共同体というものを形成して討議します。そのために、先の3人の主張を一般化します。

A:便利さを追求する。
B:不快感を避けたい。
C:生命の危機が不安である。


 以上の一般化した件について3人で各自の利害関係を抜きにして話し合いをします。その結果、「お互いに自分の『幸福(広義)に生きる』権利を認めてほしい」ことを認め合います。そして、その主張に反転して、「誰しも他人の幸福を損ねることをしてはならない」ことを知り、各自がそのルールを個別化することでそのルールに合意するに至ります。以下は、3人のルールの個別化の事例です。

A:携帯電話をいつでもどこでも使用してはならないようになる。
B:携帯電話をすべからく許せないというわけではなく、むやみに注意してはいけないことを知る。
C:携帯電話は便利であるから、自分の安全が確保される範囲では携帯電話を否定してはならないと知る。


 3人の各自の利害関心から構成される行為共同体を作り、討議を行って形成されたルールに合意し、各自でそれを個別化して適応する過程からシュヴェンマーは討議による根拠づけを主張しました。この討議の前提は、)塾呂冒覆┐討呂覆蕕覆い海函↓⊆分の権利の主張を認めること、D脅膣囘なルールが見えてきたときにそれに対して自己を直そうとする心配り、以上のことです。

対話の倫理学(シュベンマー)

 なぜ「暴力ではなく、言論で説得すべきか」を言論で説明できるのかについては、上記の過程の通りに、それが前提となっているからです。超主観的討議の背景の裏に、隠されたルールが存在することが分かるからです。討議のために、「討議をどのように運営するか」を討議する際には、暴力の入る余地などありません。

18.2.2 ハーバーマスの討議倫理学
 ハーバーマスは討議による吟味から理性的なものを構築するコミュニケーション行為による対話を考えます。そのコミュニケーション行為には3つのレベルがあります。

a 規範の素朴な前提(討議ではない)
b1 規範の問題視(今までに前提としてきた規範を問題にする)
   ↓規範の問題視から「〜すべき/すべきでない」を問題視する発言が表れて論争する
b2 合意形成への道(ただしうまくいくとは限らない)


 このコミュニケーション行為による合意形成のためには3つの条件があります。

〕澣瓩すれ違うことから対話が始まるが、その欲求を普遍化すること:お互いが別々の所で行動をすることでは問題が起こらないが、ある行動が同一の空間に入り込むと対立が発生する。例えば、高速道路でオートバイを走らせる若者と閑静な住宅街で暮らす住人の間では問題は発生しないが、閑静な住宅街でオートバイを走らせると騒音に関する対立(騒音問題)が発生する場合が該当する。
共通の言葉を持つこと:1つのある言葉で表される意味を統一することを指す。複数の意味を持つ言葉では対話が成立しない。共通の基盤を持つために必要である。例えば、「きちんとしろ」という言葉が、老人にとって「他人に不快感や迷惑をかけないこと」であり、若者にとって「自分自身を貫いて自己実現を行うこと」である場合が該当する。
2椎柔の範囲で語ること:お互いに無理なことを語るのは討議を成立させなくするので、出来る範囲でのことを互いに考えて、語らないと討議を無効にしてしまう。


 上記のは「理想的発話状況」という前提です。色々なタイプの人間がいることが現実であるから、うるさい人でも全く喋らない人でも、全員の意見が言えるように、理想的発話状況はどの人間にも平等なコミュニケーションができる状況を確保するように要請します。それは発話の平等性や理性的態度・誠実さが各人にあると想定して、理想的発話状況になるように補正します。

18.2.3 プラトンの問答法――自己内の対話
 プラトン『国家』に出てくる洞窟の比喩をここで扱います。我々は洞窟の入口を背にして鎖をつながれています。洞窟の壁には入口からの太陽の光によってできた、鎖につながれた人間の影が映し出されます。前にある洞窟の壁しか見ることができず、後ろを振り返ることができません。我々は目の前のものを真実だと思っているが、それは本当なのでしょうか。もし鎖が解かれたら、我々が見ていたものは洞窟の壁に映し出された影に過ぎないことに気づき、洞窟の外に出たら、やがて本物を見て、かつて見ていたものが影だと確信し、最後に太陽(光を出すそのもの)を見えるようになるというのが洞窟の比喩です。
 この洞窟の比喩では、洞窟の中は世間的な道徳規範(「〜しなければならない」)、鎖を外す行為は「なぜ従わなければならないか」を、外へ出る過程は討議の過程を、外界は「善について語ること」、太陽は規範の究極的根拠に対応します。
 この比喩が意味するものは、2つあります。まず、規範について語るためには、もはやそれ以上の条件のないものへと話を進めなければ、討議も中途半端なものになってしまうということ(無条件なものへの立ち返り)です。次に、根拠づけは自分で行うしかないことです。太陽を見た人は自分で見たから確信ができるが、洞窟の中にいた人間は、実際に大要が見えていないので、戻った人間は殺されかねない、故に、太陽は自分で実際に見るしかありません。結局、「〜である」と説得するためには、説得される人が説得をした後に納得しなければならないでしょう。そうでなければ、説得する意味がありません。
 事実世界と根拠世界を行き来することが心の中における問答法です。

18.3 シュヴェンマーとハーバーマスの違い
 シュヴェンマーの討議は、討議の参加者のみが合意形成するような規範に辿りつくことができればよいというものです。3人での討議ならば、3人に妥当するルールに合意すればよいとされます。
(下図)

対話の倫理学(シュベンマー)

 ハーバーマスの討議は、対話に参加する可能性のある人々(コミュニケーション共同体に参加する可能性のある人間)に対して、即ち、誰に対しても妥当するようなコミュニケーションを行わなければなりません。ハーバーマスの対話は、事実性の世界から離脱するために対話という行為の中の個人の意見や対立などを全て当てはめるため、暫定的な立場を取り続けて絶対的・究極的な真理を追究することを断念するという性格を持ちます。
(下図)

対話の倫理学(ハーバーマス)

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