[沈思黙考の記し(コラム)][戦後60年]戦後60年――虚構と現実の間で Part. 2

1. テレビに映る世界
 先程までテレビを見ていた。と言っても、テレビ番組に出ている人や出来事の様子を意識して見たわけではない。
 最近は選挙モードに入っているせいか、ニュース番組の中でも出演者や政治家が討論をしている。そこで交される言葉があまりにも下らなく、陳腐なものに感じる。いや、「陳腐」では軽すぎる。「空虚」と言ったほうが適切だろうか。
 テレビでの言葉が<空虚>とまで感じたのは今までになかった。考えてみれば、テレビから流れる映像や音声自体が<虚構>に思えてくるのだ。むしろラジオから流れる音声や言論のほうに<現実味>を感じる。そこには、言葉だけで想いを伝えようとする<語り>が(演出の有無に関わらず)あるからだ。
 テレビの映像を見ると「これが真実か」と思ってしまうことが多々ある(それがメディアの刷り込みだと分かっていても)。その刷り込みに慣れてしまったせいか、戦争で苦しんでいる住民の映像すら、どこかのバラエティーと放送されれば<番組>として同じ価値を帯びてしまう。戦争被害の映像を完全に嘘ではないと分かっていても、一瞬、どこかで「虚構ではないか」と疑ってしまう。

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[沈思黙考の記し(コラム)][戦後60年]戦後60年――戦争を記憶しない。

 知り合いからトラックバックされたので、以下はその返信メールの抜粋である。

 私はただ、よく言われている<(戦争の)記憶>や<終戦記念日>というような言説が、逆に忘却の彼方に埋没された過去を拾い上げる行為を妨げ、停滞性を生んでいるような気がしてならないのです。
 戦争体験や記録は<物語る>行為によってしか他者に伝えることができません。そこには必ず、語る者によって過去が取捨選択される<恣意性>が付きまといます。このことを前提にしないような議論や主張は、逆に戦争を一元的に捉える傾向になり、とてつもなく危険なのです。
 だから、私は絶対に戦争を<記憶>しない。それだけです。

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[沈思黙考の記し(コラム)][戦後60年]戦後60年――<戦争>を知るとは

 今日は敗戦記念日(終戦記念日)である。毎年の通り、靖国神社や日本武道館など各地で戦没者を慰霊・追悼する式典や行事が行われた。
 戦後60年について言うべきことは以前や昨日の記事(カテゴリーの[戦後60年]内の記事)で述べたので、今日は<戦争>について少しだけ書く。
 「戦争について」とは言うものの、私は戦争を体験したことがないので、「戦争を知らない」。もっと言えば、「広島や長崎の原爆や沖縄戦が強調されて語られる戦争」がウェイトを占めるから、東京大空襲や川崎大空襲の惨状を詳しく知らない。
 別に広島や長崎、沖縄の様子について語るなとは言わない。しかし、日本(その他の場所)で語られずにいる戦争の惨状や戦時下の大衆生活、娯楽なども知るべきである。現在の「広島や長崎、沖縄の惨状」を強調している言説は、逆に一面的な戦争理解しか生まず、戦争の<歴史的過去>を拾い損ね、<戦争>についての多面的な解釈や考察を阻害する。
 「今、ここに在る」。時が経ち、やがてこの言葉や行為は<過去のもの>となる。より多くの<過去>を刻み、ある出来事を多面的に考察し、物語らなければならない。

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[沈思黙考の記し(コラム)][戦後60年]戦後60年――言説の誤謬

 第2次世界大戦や太平洋戦争(大東亜戦争)の戦争に日本が負けて60年が経つ。当時12歳の少年は今では72歳になっている。

1. 「原子爆弾(原爆)投下」をめぐる言説
 「日本はアメリカに原子爆弾(広島/「ヒロシマ」、長崎/「ナガサキ」)を落とされ、多大なる犠牲者を出した」。いや、この表現は本当に訴えるべき論理をぼかしている。むしろこう言うべきだろう。「アメリカは日本に原子爆弾を落とし、多大なる犠牲者を出した」と。
 アメリカの原爆投下は、明らかに戦争経過規制(jus in bello)の<関係のない人々へ危害が及ばないこと>や<戦争当事者への危害は最小限度に留めること>に違反する。戦争にもルールがあるのだ。
 <「日本が多くのアジアの人を苦しめた」から「アメリカの原爆投下は仕方がない」>という論理は間違っている。「日本が多くのアジアの人を苦しめた」のは間違いないが、この論理と「アメリカの原爆投下は仕方がない」という論理を切り離した方がいい。核廃絶を主張している人までもが、上記のような論理を主張しているのは、核廃絶の願いと逆行している。つまり、そのような論理こそが原爆投下の正当性を認めてしまっているのだ。

2. 「戦争の記憶」をめぐる言説
 また、戦争を体験した人たちの<記憶>を<物語る>作業も忘れてはならない。ただし、それぞれの<記憶>を集めて<集合的記憶>化する場合、その<記憶>が既に「<記憶>に残らなかった人・ものを排除している」ことを考慮すべきだろう。
 <物語る>行為は、膨大な過去の経験の中からある過去の場面を取捨選択して語るものである。その取捨選択は<物語らない>という形で、余分なものを切り捨てる行為を伴う。「戦争の記憶を共有しよう」と主張する人と話をすると、これについての考慮が足りないと感じる。まさか「過去の記憶を語りつくそう/拾いつくそう」とでも思っているのではないか。確かに過去を拾うことができないわけではない。しかし、完全に語りつくす/拾いつくすのは不可能だ。この認識から始めるべきだ。
 <物語る>行為に伴う取捨選択の性質を考慮した上で個々の<記憶>から自身の頭で歴史を考察する態度こそ、歴史や過去を考察する上で求められる基本的態度である。

【参考文献】
拙稿(2005.3.10)「「テロリズム」への<倫理>」、http://tmaker.jugem.cc/?eid=117
――(2004.12.20)「歴史と記憶――1. 疑問」、http://tmaker.jugem.cc/?eid=83
――(2005.1.14)「歴史と記憶――2. 「記憶」が抱えるジレンマ」、http://tmaker.jugem.cc/?eid=93

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