[倫理学][道徳][社会哲学]「分かり合えないものへの呼びかけ」による関係性構築についての考察

1. 問題提起
 最近、ちょっと考え事にふけている。そもそも「他者の立場に立って考える」こと自体、自身の都合の良いように想定された他者に過ぎない。そうなれば、個人の価値判断の拠り所としているものさえも、絶対的な規範とはなりえない。更に言えば、「他者の立場に立って考える」ということは、自己と他者とが何らかの同じ地盤に既に立っていることを想定している。即ち、同じ基盤に立てることから関係性が構築されるという議論である。だが、その問題設定を更に進めて、同じ基盤に立てないが故に関係性を築くにはどうすればよいかを考えてみたい(しかし、思案を練り始めた段階なので問題提起も十分にできないことをここで断る)。

2. 住吉雅美(2004)の展開
 上記の思案が思いついたきっかけは、住吉雅美(2004)の論文であった。住吉はシュティルナーのエゴイズムに関する議論から、個人(自己・他者)像を展開し、そこから正義論(リベラリズム:本稿では同義と見なす)の概念を再構築する必要があると主張する。
 道徳判断を行う際に拠り所とする「善(good)」は複数存在することから、衝突を避けるために「正しさ(right)」を求めることで、皆が合意するような原理を求めるのが正義論の基本的な考え方である。
 しかし、正義論でさえ無秩序な原理を模索するわけではなく、ある種の「善の構想」の基に原理が追求されるために、特定の「善」を必要とする。
 他方、個別的な「善」の基に行為する人間でさえ、他者を利用するために何らかの「社会構想」が必要となる。
 この両者のジレンマを解決することがリベラリズム再構築に求められる。
 そこで、住吉はシュティルナーの議論を展開する。シュティルナーは個人の意思と共同体を連関させるような人間観を否定する。そのような人間観には国家や市民や教会などの観念を「聖なるもの(das Heilige)」として適合させる観念がつきまとう。シュティルナーはそのような固定観念がない人間として、自己の対象化を否定し、不断に流動する経験的意識を持つ人間を「エゴイスト(Egoist)」と規定する。「エゴイスト」は自然的・所与的に異質な者同士が互いに「唯一者」として向き合う可能性を持つ。
 シュティルナーはそのような「唯一者」が他者を志向する媒介項として「愛」を掲げる。他者は私と同じ認識構造を持っていながら、私という認識構造では捉えることができない、「私を脅かすもの」として表れる。そのような中で、「唯一者」は自分が幸福と感ずるならば、「愛」ゆえの利他的な行為、他者への献身、自己犠牲を厭わないからである。その際に「愛」は、自己と他者(他者)との関係を<主体‐対象>の図式に収斂しない「私」を知る契機として機能し、新たな「倫理」が形成される可能性があると言う。即ち、住吉は「唯一者」同士が全くの差異性のままから何ら媒介項を設けずに直接、関係形成を図ることで、「唯一者」同士が抱えている流動性が生む不安定性のために、自発的な倫理的枠組みが形成できる可能性が大きいと言う(他方、住吉は倫理を<「私」の「他者」に対するあらゆる応答可能性における選択の自由>と規定しているので、他者に対して攻撃することも十分に考えられると記している)。

3. 補遺
 ここで若干の疑問点を提示する。
 まず、上記の「倫理」からは、「他者を殺害する」という行為を導出することも可能である。私は他者に対する攻撃行為を抑制する関係性を構築する必要があると考える。その場合、何らかの規範原理が必要で、その原理は普遍性を要求できるものでなければ「倫理」が構築できないのではないか。
 また、正義論の思考法が意義を持つのは「合意を形成すること」にあると私は考える。価値観が異なるからこそ、暫定的に見えても合意形成の可能性があるリベラリズムの意義が表れてくるのだろう(この問題については、今後も考察を続ける)。

【参考文献】
 住吉雅美(2004)「エゴイストは「他者」の夢を見るか?――シュティルナーと正義論の脱構築――」、『思想』第965号(岩波書店、2004.9)所収.
 小林和之(2004)『「おろかもの」の正義論』、筑摩書房(ちくま新書509).
 ウィル・キムリッカ(2002)『現代政治理論』、岡崎靖輝ほか訳、日本経済評論社.
 ジョン・ロールズ(1979)『公正としての正義』、田中成明編訳、木鐸社.

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[倫理学][道徳][社会哲学]対話や倫理の実効性と必要性

 「他者性を認識」し、その上で「対話」し、その延長上に「共生」できる社会を創りたい人間に対して、次のような問いが立ちはだかる。
 「出て行け!ここは俺んちだ!」と主張しても逆に発砲され、出て行くことを余儀なくされる人間は、対話を主張する人間にどのように映るのだろうか。また、この状況は「対話」という論理が全く排除された状況であろうか。
 この問いは更なる根本的な問いを提示する。即ち、「力の前に対話は非力だろうか」という問いである。
 以上の問いに対して、私は対話の問題を倫理の問題として考えたい。なぜなら、両者共に複数の人間の行為に関わる問題であるからだ。
 私が考える倫理の最大の問題は、対話につくことを拒否しつつ力を行使する者に対して、倫理は「実効性を持った力」を発揮することができないことである。例えば、環境問題に対して倫理的な根拠付けが直接に解決の方向へ導くことはできない。いかに倫理の名の下に間違っていると判断されたとしても、そのことが即座に温室効果ガスを減らして地球温暖化を防ぐような実行力(技術)を提供するものでも、○○パーセント削減できたという実効性を与えるものでもない。
 しかし、「倫理が実効性を持たないこと」が即座に「倫理が意味の無いものだ」と結論付けるものではない。
 ある技術や政策を行う場合、「なぜそれを行うのか」という根拠づけが実行する場合の正当性を確保する上で必要である。その時に倫理が必要となるのだ。法律は制定されても必ず脱法行為がつきまとう。倫理はその脱法行為が「なぜいけないのか」の根拠や、さらには法律の制定根拠までも吟味することで法律の正当性を支えている。
 対話の問題に戻ると、対話の役割はそれぞれの行為主体の中で「合意を形成」することだと考える。そこから誰もが合意できるようなルールを規定し、いわゆる「倫理的公共圏の形成」へと拡張することができる可能性が対話にあるだろう。
 以上を踏まえて、残念ながら「力の前に倫理や対話は非力だ」と結論づけられるだろう。しかし、それは決して無意味ではない。

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