[沈思黙考の記し(コラム)]町の記憶

 かつて、某田園都市構想による開発を拒否したために、周辺部のタウン化から隔絶されて取り残された、かの某政令指定都市某「港町BAY」の一地域。30年前と変わらない田んぼとJAが立地している(せいぜい変わったのは店が潰れたぐらいである)。周辺地域はハイソサエティーなセレブを夢見るベッドタウンと化したが、この地だけはどうにも変化のしようがない《断絶》が此処にはある。即ち、宅地開発や都市開発など、町の栄枯隆盛は「あっ、あのビルが建つ前は何だったっけ…」と、人々がよほど意識しない限り、記憶が瞬殺的に忘却の彼方へと去りゆくものであるが、この地は模範的・典型的にそのような忘却の作用が働きにくい立地なのである(詳細は社会学・歴史哲学・都市計画論などを勉強してください)。

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[沈思黙考の記し(コラム)]大学入試センター試験に関して…

 昨日、今日と2日間続けて大学入試センター試験が行われた。2020年度より「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」がセンター試験廃止に伴い行われることが予定されていることから、今後の中学生は色々と大変なことに巻き込まれていくことになりそうだ。
 様々な人間を多面的に評価し、多様な人材を育成し輩出することは大学にとっては重要な社会的な使命である。実際には、評価するためにかけられる時間と労力と費用をどれだけ負担する覚悟があるかという点がネックになるが、その負担面のために時間と費用を注ぐことに費やす余裕のある家庭と、そうではない家庭との格差が広がることだけは、あってはならないことだとは思う。特に、「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」で論述や英作文の場合にパソコン入力で解答することが考えられることだが、そうなると、高得点ゲットのためには基本的知識のほかに、タイピング能力がより要求されることになる。学校によってはコンピュータ教室が1部屋しかない学校もあるので、そういう学校ではタイピング能力なんかそもそもトレーニングさせることは不可能だ。
 様々なネックが付きまとうが、フランスのバカロレア入試のような受験をやるかどうかが、実を言うと、ただ「受験合格できた」以上に、世界経済の中で渡り合えるグローバル人材の育成のために、必要なことなのかもしれない。

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[沈思黙考の記し(コラム)]限定モノの伊達巻を食して…。

 各業界は今日から仕事始めだが、年休を取得して一日中家に籠る。
 昨日、スーパーで限定品で1本2000円で売っていた、築地佃權のこだわり伊達巻を食す。


 初めて食べたが、味が濃く染み込んでいて、奥深い。限定商品を買ったのだから、毎年いつものように店頭に並んでいる他の伊達巻に比べて、味が違うのは当然だ。
 そう、期間限定や数量限定の商品やサービスに、人々は何気なくも惹かれていくものなのは、各々の経験則からも分かることであろう(尤も、そういう限定モノのために行列待ちをするのが大嫌いな人もいるのも然り)。ここから言えるのは、各々の価値は、先ずは、世の中にある様々なモノや事柄から自らを「限定化する」、つまり際立たせることことによって高めているわけである。「先ずは」と書いたのは、たとえ期間限定モノにありつけたとしても、それによって味わえる体験があまりにも惨憺たるものであったら、今後、そのような期間限定モノに惹かれることは二度と無いだろう。これはリピーターが付かないという点でビジネスでは死活問題と化すことである。
 以上、至極当然の話しか記していないが、個性なるものを際立たせるための作法として、自らの価値を身の周りの環境や状況を弁えるだけの能力や知識や教養が無ければ話にならない。こんなことを伊達巻から考えることになるとはね。

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[沈思黙考の記し(コラム)]創造なきルーティンワークって…。

 2017年が始まったとはいえ、しなければならないことは、それほど変わりがない。これを「ルーティンワーク」と称してディスることは簡単だが、ルーティンワークすらできないことだって多々あるのだから、馬鹿にすることはできない。
 どんな事でも共通して言えることではあるが、日頃のパフォーマンスを維持するためには、日々刻々と変わる諸条件を考慮しながら、布石を打つ。つまり、同じことをやるにも、それをやるための条件が変わっているのだから、やることは全く同じはずがない。このことを無視して、「同じこと毎回やっているのだから、創造性がない」などと批判するのは、実は案外、乱暴な話でもある。
 ただし、そのルーティンワーク自体にやる意味がそもそもあるのかどうかは、常に検討しなければならない。そうでなければ、限られた条件の中でやらなければならない以上、無駄な仕事が重なるだけである。スクラップアンドビルドができないようでは、元も子もない。
 こんなことを記さなければならないほど、実は無駄な仕事に追い込まれてしまっているのが、今の世の中なのかもしれない。

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[沈思黙考の記し(コラム)][戦後70年]日本の敗戦についての雑感

 8月15日。所謂「終戦記念日」とされる日であるが、「終戦」という言葉は適切ではない。以前、不勉強の故に「終戦」と記したが、正しく客観的に言えば、「敗戦」なのだ(もっと言えば、8月15日は昭和天皇の玉音放送で日本がポツダム宣言を受諾することを、大日本帝国臣民に対して表明した日であり、ポツダム宣言を受諾して日本が降伏文書に調印したのは9月2日である)。
 戦後70年が経ち、世界各国で様々なイベントが行われている。そのような中で、なぜ「あの戦争について総括が全くできていない」という言説が未だに流れているのだろうか。
 確かに、あの戦争についての総括ができていないのは事実だろう。その際に、「総括」するために確認しなければならないことを、そもそも、考慮するだけの土壌が整っているのだろうか。
 私自身も不肖ながら、考えなければならないこともあるが、その不肖なりに思ったことをここで記しておくことにする。
 まず、「日本人は歴史を学んでいない」という点だ。これと一緒に言われるのが、「日本人は学校で日本史の近現代史を学んでいない」ということであり、さらに、「だからこそ、日本史の近現代史をより一層充実させるべきだ」という主張である。
 これについては、今後の学習指導要領改訂による新設科目「歴史基礎」でも扱うことになるだろうが、現状の教育課程で言えば、日本史A・日本史B(特に、授業時数や教育課程での実情から言えば日本史A)で本来扱うべきものである。厳しい部分もあるが、実情からすれば、たとえ日本史プロパーの方々が納得しないかもしれないが、年度の年間授業時数から逆算して精選するしかない(ただし、これも実情から言えば、特に日本史Aで言えば、コアとなる部分以外は容赦なく削ぎ落とすことをしなければ、物理的に授業時数が足りないのが現状である)。
 次に、そもそもなぜ「敗戦」ではないのか。教科書的に言えば、日本は日中戦争から太平洋戦争に至る戦争に敗れたのであり、日本が直接的に負けたのは中国とアメリカである。強調して繰り返して言えば、「日本は中国に負けた」のである。別に私は反日主義者でもないし、アメリカによる日本侵攻を認めているわけでもないが、アメリカによる東京大空襲や広島と長崎への原爆投下や沖縄戦のインパクトが大きいせいなのか、「あの戦争」から連想されるのがどうも「日本とアメリカとの戦争」にフォーカスされ、この点がその後の「外交関係といえば日米間系が基軸」という概念へと直接的に繋げてしまっているように思える。
 要は、「『あの戦争』について総括」をするためにも、もう「日本は敗戦した」ということをまずは前提にしていかなければならない、ということである。「終戦」という言葉で、戦争を天変地異の類の如きものに帰するのではなく、東久邇宮稔彦王が唱えたような「一億総懺悔」という言葉で有耶無耶にすることでもなく、「敗戦」ということから、あの戦争に負けた原因を追及する敗因分析を徹底的にやらなければ、いつまで経っても「あの戦争について総括が全くできていない」という批判に応えることはできないだろう。

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[沈思黙考の記し(コラム)]ラジオ語学番組に関する考察

 毎朝、ラジオを聞きながら通勤しているとき、日常のニュースやFMラジオの番組の音楽にちょうど飽きてきて、そんな折に適当にチューニングして語学番組のラジオを聞くようになった。
 当然のことながら、英語やドイツ語、ハングルなどいろいろ流れてくるのだが、なかなか聞き取れない。まあ、語学番組のテキストでも買えばリスニングの難易度は格段に下がると思うが、とりあえず、番組が流れるタイミングが通勤時間帯にマッチしたドイツ語のテキストを昨年10月から買い、聞き続けることにした。
 そんなことを続けて、以下の点か今頃になって気がついた。

―薺蕕慮豎愴崛箸世隼廚辰読遒襪戮らず。
 例えば中学生レベル向けと想定されている「基礎英語1〜3」だが、「中学生レベル向け」だと思って、なめてかかることなかれ。ドイツ語以外のテキストは買っていないので、番組を聴くことだけで内容を理解しているが、まあ言い回しのスピードが速く、会話中の単語が聞き取れずに内容がよく分からない状態になっている。「基礎英語1」は聞き取れるが、「基礎英語2」になるとちょっと聞き取りづらい部分が出てきて、「基礎英語3」になるともう雲行きが怪しくなる。
 また、例文のフレーズの単語のスペリングや動詞の時制("will"が入っているのか、過去形なのか、完了形なのか)、冠詞("a"なのか"the"なのか)、名詞(単数形なのか複数形なのか)などなど、一度聞いただけではなかなか分からない。例文のフレーズが2回は流れるのでそこでのフォローができているのが幸いだが、1回しか流れないともうお手上げ。

語学番組の面白さは出演者のトークの面白さに由来する。
 語学番組なので、外国語を話せるようになりたい人が聞くものであり、当然ながらその内容が語学の基礎的なコミュニケーション能力を涵養させられるものでなくてはならない。しかしながらあくまで語学「番組」である。「番組」であるからにはその面白さは、内容よりもむしろ出演者のトーキング能力や面白さに依拠する点が大きい。基礎的な文法や会話表現を織り込んであれば、あとは講師やネイティブスピーカーの面白さが前面に出ていれば、聞く側にすれば聞いてみようと思うのである。つまんない授業を聞くよりも面白いほうを選ぶのと同じだ。

 あと、ラジオ語学番組と引きこもりとの関係性についての考察もちょこっと思いついたのだが、まとまってからにしようと思う。とにかく、ラジオ語学番組には思いがけない材料が眠っている。

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[沈思黙考の記し(コラム)]選挙についての雑感

 選挙の投票に行ってきた。ここで選挙についての雑感を綴る。
 まず、選挙カー、街頭演説、選挙ビラ・選挙ポスターによる従来のやり方を即刻改め、戸別訪問やインターネットの更新をとっとと認めた選挙戦ができるようにすべきである。明らかに選挙カーで「皆様のお力を●●にお貸しいただきたい」、「●●で育ったこの地元出身の●●、全身全霊で頑張ります」といったコメントを大音量のマイクで流れると鬱陶しく聞こえる。おまけに選挙カー同士が接近してマイクから流れるせいか、上記のようなコメントが大音量のノイズとしてお互いに反響して余計な騒音になっていて近所迷惑も甚だしい。それならば一軒一軒周れるようにして一斉に流れるノイズを最小限に抑えられるほうが生活環境の実情に合っている。インターネット選挙も、ネット投票の環境や基盤、制度の整備をもう少し徹底できれば可能だろうが、最低でもブログや動画、ツイッターなどの候補者の広報情報の更新はいい加減認められてしかるべきだ。
 余談だが、選挙前から候補者のポスターについても、「市政の長期構想計画募集中」の「市」と「長」をあからさまに強調して市長候補だと知らしめるような脱法ポスターを貼りまくったり、選挙期間中には公職選挙法に引っかかるので規定枚数を上回るポスターを外し、候補者の写真がなく大きな文字で「市長/市議会議員は●●党の候補に」とだけ書かれたポスターを貼りまくる、これらの言わばアンフェアなポスターについても疑問がある。
 選挙公報でも、スペースが限られているからと言えども、ただ自分のスローガンだけを適当に並べている当選回数が多い候補者が多いことも目立つ。「本質は細部に宿る」通り、こういう御方は公報で「業界団体からの支援があるから受かるだろ」と自分の慢心をひけらかしているだけなのだ。選挙民は絶対にこんな候補者を許すべきではない。
 だから、現行の選挙制度は明らかに問題が山積しているのだが、自分が損をしないためにも、ぜひ投票に行きましょう。

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[沈思黙考の記し(コラム)][特別支援教育]Die Sonderpaedagogik ist der paedagogische Ausgangspunkt.

 新年度になって、急に仕事量が激増して家のパソコンとにらめっこする時間がない。毎日テンションを上げて生徒に接し、仕事に追われているので、幾分スリルがあって非常に脳内のアドレナリンが活性化している状態でそれはそれで楽しいのだが、体の疲れがなかなか取れない。
 そんな折に、通勤のバス・電車の車内で朝はラジオでドイツ語を、帰りは携帯電話で音楽を聞きながら、「特別支援教育は“教育の原点”である」ということの私なりの解釈を、ふっとメモに記した。この仕事を始めて5年目だが、ようやくこの言葉の意味がおぼろげながら体感的に分かるようになってきたからだ。
 よく言及されているのが、「生徒一人一人のニーズに合った支援を行い、生徒たちの自立や生きる力を高めるための教育だからだ」というもの。ここで私が感じたことを付け加える。以下に記す。

 教師は生徒たちに接して、「この《先生》と接すると楽しい、喜びがある、元気が出る」などのプラスのエネルギーを、相手にも与えることができるか否かが如実に試されている。勿論この行為をする当人も行為自体をすることが「楽しい、喜びがある、元気が出る」と実感できるかも同様に試される。
 つまり、次の二点をクリアすることができれば、子どもと向き合うことの仕事につく資格がある。

 \古未燭舛「この《先生》と接すると楽しい、喜びがある、元気が出る」と思えること。
 教員が「《,旅坩戞佞魍擇靴ぁ喜びがある、元気が出る」と実感できること。

 これらの点がクリアできていないならば、即刻辞めるべきだ。
 特別支援教育はその性格上、個別の生徒に寄り添うことが通常学級に比べて物理的に長いので、(通常学級のことを否定するわけではないが)上の二点について自問することが多い。つまり、教育(Erziehung)の本質そのものに対峙する資格があるかどうかが如実に試される。

 特別支援学級だろうが通常学級だろうが、このことを肝に銘じておかねばならない。そう感じた。

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[沈思黙考の記し(コラム)]2009年最初の書き込み

 謹賀新年。賀正。
 元旦のテレビ番組ってこんなにつまらなかったのかと思うくらい、正直テレビ番組がとてもショぼい。先日にガザ(Gaza)の追悼のことについて書いたので、本当ならどこかの放送局の1つくらい報道番組をやってもいいのに(別にガザのことが起こらなかったとしても)、どうもシラケてしまっている感が否めない。イスラエルとパレスチナの情勢がまたまた悪い状況に進んでいるのが非常に心配だ。長年の諍いが積み重なったものの前では「寛容(die Toleranz)」などと語るのは非常に軽々しいことだろう。でもいい加減に、本気で寛容を語らないといけない状況だろう。それくらい神に認めてほしいものだ。
 話を変えて、昨年は「愚直に積み重ねてきたことが結実したこと」を久々に得られた年だった。今年は間違いなく、自身にとって破滅(der Untergang)の年になるだろう。そのことを覚悟して、日々データ収集・記録、精進に努めたい。

【当ウェブログの2008年12月分の合計アクセス数:7034】

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[沈思黙考の記し(コラム)]Memento mori…2008年最後の書き込み

 毎年この時期に1年を振り返ろうとしている。しかし、今回は遥かガザの地で命を落とした「テロリスト」ではないパレスチナの人々へ鎮魂の意を捧げようと思う。
 「テロリスト」であるか否かなど、政治的な話はともかく、新しい年が訪れようとする直前に命を落とすという想像を絶する悲劇に、私たちはどのように想起しようと思えばいいのだろうか。決して全てを分かることはできないが、せめて祈ろう。
 Nunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus.(今は飲むときだ、今は気ままに踊るときだ)というホラティウスの詩の一文が、いっそうこの悲劇と世界とのギャップを露骨に皮肉っぽく表している。

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[沈思黙考の記し(コラム)]Werden Sie mir sagen, wo ich falsch bin?

 蛇足ながら、今では服装にロゴや文字が描かれた衣服を着ない機会は皆無に等しいだろう。
 英語にせよドイツ語にせよ、外国語が書かれたトレーナーやシャツなどの衣服を着る場合には、その書かれている意味や内容について十分に注意しないといけない。その文章やロゴが付いたものを着ていることで、その人のスタンスや主張を表すことになるからだ。
 特に、"Werden Sie mir sagen, wo ich falsch bin?"のようなものを着る場合には覚悟しなければならないだろう…。くれぐれもご注意を。

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[沈思黙考の記し(コラム)]2007年最後の書き込み

 大晦日ということで、今年の教訓を振り返り、来年への行動の礎としたいものだ。
 今年の世相を表す漢字にまたまた「偽」が選ばれた(2007.12.12)。様々な食品偽装事件が報道されては謝罪会見が行われた。また、銃による犯罪やボクシング・大相撲での品格問題、参議院議員選挙による政界の動向や突然の安倍総理大臣辞任など、様々な所で「乱れ」まくった世間だった。
 私自身としては特別支援教育の場に関わり始めて戸惑いも多かったが、今までの経験が大いに役立ち、それなりに動けたことが良かった。来年どうなるか分からないが、自分の希望や野望が一つでも達成できるようにしたいものだ。

 2003年3月に当ウェブログを始めてから3年9ヶ月が経とうとしている。現時点でのアクセス数・記事数は以下の通り。
 昨日のアクセス数:236
 2007年12月の総アクセス数:8345(累計アクセス数は不明。当ウェブログに設置しているアクセスカウンター(By NINJA TOOLS)によれば54905を超えているものと思われる)

 いつも読んでくださっている方々に感謝しつつ、これからも自分のペースで進めていきたいと思います。
 では、よいお年をお過ごし下さい。

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[沈思黙考の記し(コラム)]私の些細な宣言

 つい先日に<寛容>のことについて書いた。寛容さを拒否することは非常に簡単だ。けれどもそんな世の中(社会)は些細な流動性をも失い、停滞して淀む。また寛容のない社会はお互いの関心をも拒否し、自分たちのドグマに邁進する。百歩譲って、ドグマが社会に広く遍く通用し続けるならばそれに生きるのもいいだろう。しかしながらそんなドグマさえも流れゆく社会である中では、それに篭ることで他を排除することにつながるんだよ。つくづくそう思う。
 <寛容>の難しいところは「分かり合えない人たちを<排除せず>にどう付き合うか」ということで、分かり合えない人たちに対して<寛容>の度合いが試されるのである(分かり合える間柄には<寛容>など必要ない)。少なくとも、私はドグマに逃げ込む気はない。いや、逃げてはいけないのだ。それが使命だ。

【参考文献・参考URL】
拙稿(2004.10.25)「寛容論と共生」、http://tmaker.jugem.cc/?eid=52

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[沈思黙考の記し(コラム)]なぜビリーズブートキャンプ(Billy's Bootcamp)にハマるのか?

 ビリーズブートキャンプの「祭り」が止まらない。ビリー・ブランクスが来日し、日本で数々のメディアでブートキャンプ訓練を実施しているからだ。この現象はもはや「祭り」と言ってもいいだろう。
 では、なぜこれほどまでに人気が出たのだろうか。そこで私なりの小論を。
 最大の要因は、ビリーズブートキャンプの訓練が「軍隊式」であることだ。全てがそこに起因する。
 まず、軍隊という、言わば「日常の世界とは離れた環境に身を置く」ような体験をすることで自分を追い込むことが、通常のエクササイズビデオとは一際違った面白さを与えて「ウケた」ことが挙げられる。
 次に、「ブートキャンプ」という<新兵の基礎体力育成のために行われる特殊な軍隊式の短期間トレーニング>の面で、短期間で結果が出るという面が「ウケた」のだろう。
 更に、この訓練のハードさ、きつさやビリーの声かけから、「結局、ダイエットは楽をして痩せられるものではない。厳しく、苦しい訓練に耐えた者だけに結果がついてくる」という現実を突きつけてくることが、重要な面だろう。
 即ち、「軍隊式」という面が我々に「理想のためには現実を直視しなければならない」というリアリズム(realism)を直視させるのである。

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[沈思黙考の記し(コラム)]今更ながらの個人主義小論

 「グラディウス(Gradius)」・「沙羅曼蛇(SALAMANDER)」という難易度の高いシューティングゲームが昔あった。赤い敵を倒すと出てくるパワーカプセルを取って戦闘機の武器を強くしながら撃ち進んでいくゲームである。
 動画投稿サイト"Youtube"で何気なく検索してみたらゲーム画面が結構あったので、適当に選んで眺めてみた。丁度、先のゲームの全盛期に小学生だったので、懐かしく思った。何せ初心者に優しさのかけらもないゲームの一つだったので、それなりにインパクトも強かった。
 上記のゲームも今や携帯電話のウェブアプリソフトや携帯ゲーム機器ソフトとして搭載されている。今や上記のものさえコンパクトな世界で楽しむことが可能となった。このような縮小化(reduction)は個人化を更に加速させ、個人化も更に縮小化を加速させ、連関し他者を促進させている。
 今のような「個人主義(individualism)」では各人がプレーヤーとなり突き進むしかない。社会に潜むリスクも何もかも引き受ける覚悟(resolution)や度胸(courage)が必要だ。

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[沈思黙考の記し(コラム)][8.15終戦記念日][靖国問題]<感情>と<論理>のはざまで

 今年も8月がやってきた。原爆投下の日を広島(8.6)、長崎(8.8)で迎え、終戦記念日(正確には8.15に戦争が終わったわけではない。あくまでポツダム宣言を受諾した日に過ぎない)を迎えることになるだろう。それらは、夏の高校野球と同列で語られる。つまり、いつも通りの例年行事という<感覚>なのだ。以下、最近感じたことの雑記。

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[沈思黙考の記し(コラム)]「事件の影響」と言われるものとは何か?

 今日はこの事件から。

<川崎男児転落死>41歳男を逮捕 女性殺人未遂容疑で
 川崎市多摩区のマンションで3月20日、15階通路から同市立中野島小3年、山川雄樹君(9)が転落死した事件に関連し、神奈川県警多摩署捜査本部は1日、事件の9日後に同じ通路から清掃作業員の女性(68)を投げ落とそうとしたとして、同署に出頭した同市麻生区細山5、無職、今井健詞容疑者(41)を殺人未遂と建造物侵入容疑で逮捕した。今井容疑者は容疑を認め、雄樹君の事件についても「殺そうと思って投げ落とした」と供述。いずれも「面識はなかった」と話しており、捜査本部は無差別殺人を企てたとみて、雄樹君の殺人容疑でも追及する。(以下略)
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060401-00000092-mai-soci)


 上記の事件に関係する地域が、実は私がよく知っているエリアである。
 事件現場の近くに住む人たちは、事件が起こってから犯人が捕まるまで、犯人への怒りと共に、「犯人がまだうろついているのではないか」という不安感・恐怖感に駆られる。そして、犯人が捕まると、その恐怖感から完全ではないにせよ解放される。しかし、癒えるまでにはかなりの時間がかかる。
 だが、恐怖感に駆られるのは事件現場の近くに住む人たちだけではない。
 確かに、犯人が事件現場から極めて近くに住んでいれば、容疑者(被疑者)逮捕と同時に恐怖感の解放が訪れるだろう。だが、犯人が事件現場から離れた場所に住んでいるとき、容疑者逮捕のときや犯人の住居の場所が明らかになってから、初めてその周りの地域の人々は恐怖感に駆られるだろう。つまり、犯人が周囲の人々に与える恐怖は、事件を起こした直後に周辺に与えるものだけではなく、少なくとも犯人が逮捕された後にその犯人の住居の周辺に与えるものもある。よって、事件の<恐怖>や<衝撃>はタイムラグを伴いながら、複数の場所で、そのエリアの住民にまさに「波及する」のだ。

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[沈思黙考の記し(コラム)]今、振り返る。「広島」への雑感

 外界に対する自分の感覚が劣化しているとしか思えない。このことは先日、広島に行った時に如実に感じていた。
 新幹線から見える車窓や、原爆ドームから宮島へ向かう電車の車窓から外を見れば、辺り一面が住宅地だった。それらが見えた時、移動の際に感じられる「旅情」というものが一気に醒めた。
 多くの人が広島へ通勤し、周辺が広島郊外の住宅地であることは当然で分かっている。だが、車窓から見える景色は、いつも通勤で乗る電車の車窓からの景色と「何ら変わりがない」としか感じなかった。移動中に見えたのは<郊外>の風景だけだった。
 <郊外>に建てられる家や公園、スーパーマーケットは人間が生活しやすいように整備される。そこでは<人間の生活環境>として均一化・画一化され、土地ならではの<風土>や<環境>というものが消えていく。
 今、振り返れば、そんな感じがした。

▲当ウェブログ内を「学年旅行(2005年度) in 広島」で検索した結果が以下のアドレスです。

【参考文献】
http://tmaker.jugem.cc/?search=%B3%D8%C7%AF%CE%B9%B9%D4%A1%CA2005%C7%AF%C5%D9%A1%CB+in+%B9%AD%C5%E7

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[沈思黙考の記し(コラム)]「言葉」への「盲信」

 先日、電車の中で珍しき広告を見つけた。

言葉は
感情的で、
残酷で、
ときに無力だ。

それでも
私たちは信じている、
言葉のチカラを。

ジャーナリスト宣言。
朝日新聞


 最後に「朝日新聞」とある。朝日新聞が広告を出すとは、珍しきかな。まさか一連の朝日新聞にまつわる事件で、売れ行きがガタ落ちになったから喚いているんじゃないだろうな。むしろ「無力」になったのは朝日新聞自身の言説だろ(いわゆる自爆)。そういうのを「盲信」と言うんじゃ…。
 と冗談はさて置き、「言葉」に一体どれほどの「チカラ」があるのかは疑問が残る。勿論、語られる「言葉」には十分な説得力や妥当性が必要だ。しかしながら、「言葉」以外の要素、つまり語られ方や<作法>、相手への<コミュニケーション関係>など、相手が納得するような「言葉」の使い方が伴っていなければ、いつでも「言葉」なんて「無力」のままだ。
 また、コミュニケーション関係や<作法>が成立しないからこそ、「言葉」が「無力」でなければならない状況も現にある。
 「言葉」は「無力」ではないが、「言葉」が全てではない。

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[沈思黙考の記し(コラム)]Why must I study?

 午前中の外出を経て、午後の時間を鬱蒼とした外界から離れた場所で過ごす。その中で見つけた記事からちとコメント。
 記事自体の内容は失礼ながら、主義主張を発言したものでもなく、大したものではない。むしろ記事のタイトルに引かれた。
 「なぜ勉強しなければいけないのか」という問いは昔から存在する有名な問題である。大概、勉強することが嫌いだからこのような問いが出る(自分の経験からでも勉強が嫌になるときにこの問いが出た)。
 だが、この問いの立て方自体が問題なのである。<勉強>とは、そもそも自分で必要だと自覚してはじめてその意義が生まれるもので、「受験のため」とか「他人に勧められて」というような他律的な動機から勉強するのでは、やがて嫌気が差してくる。つまり<勉強>には言わば自律的動機が必要なのだ(ただし、ここでの「自律」・「他律」はカント的な意味合いと異なる)。自分で意義や目的を定めた上でやらなければ身につくはずもない。
 だが、上記の私見も「質問から逃げてない?」と言われればそれまでであるが。

【参考文献】
宮永正義(2006.1.9)「せんせ〜あのね?どうして勉強せないかんの!」、http://www.janjan.jp/column/0601/0601077455/1.php

【時事】
◎20060109 仙台・乳児連れ去り事件 夫婦ら3人を逮捕

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[沈思黙考の記し(コラム)]地震と入試(受験)

 疲れた。運動不足がたたって膝が笑ってらぁ〜。
 そんな折にこんな記事を見つけたのでストック。

フィジー諸島沖でM7.1
 南太平洋のフィジー諸島沖で3日午前10時13分(日本時間同7時13分)ごろ、強い地震があった。米地質調査所によると、地震の規模はマグニチュード(M)7.1、震源の深さは579キロ。
 震源地はフィジー諸島の首都スバの東南東約400キロ。被害は伝えられていない。米太平洋津波警報センター(ハワイ)によると、津波は発生していない。(共同)
(01/03 10:32)
(産経新聞[2006.1.3]http://www.sankei.co.jp/news/060103/kok014.htm)


 産経新聞から引用。産経新聞は「日本の良識派」と一部では言われている。しかし、何のことだかサッパリなので今回はスルー。とにかく今回は地震に関してのつれづれ。
 近年は新潟県や宮城県、福岡県、東京都で規模が大きな地震が起きたり、耐震偽装事件があったりと、それがメディアがわめいているにせよ、敏感になってきている。なのに地震のメカニズムや基礎知識・構造があまり認知されていないのはなぜか。本当ならば「プレートテクトニクス理論」なんてとっくの昔話のはずだ(「プルームテクトニクス理論」も出てるだろ。[間違いがあれば訂正をお願いします])。
 今時、大学入試センター試験で「地学」を受験する人間なんて珍しい部類になるほど、「地学」は影を潜めている。大雑把に言えば、「地学」は|倭悄↓気象、1宙の分野から成り立つ。◆Νは主に地球物理・宇宙物理として物理に関係するが、,聾点験悗箸靴胴邑迭悄蔑鮖乏悄砲抜悗錣襦
 問題は特に,悗隆愎瓦低いことだ。教育カリキュラムが悪いといえばそれまでだが、自説を言う。◆Νは「物理」が得意な人ならばそれほど難なく点数を稼げるからそのまま得意気でいられるが、,涼倭悗覆鵑動典系がメインとなり訳が分かりにくくなるから苦手意識が生まれやすい。
 しかし、今ほど「地学」の知識が求められる時代はない。家やマンションを買うにも、耐震構造や設計図、その土地の地盤の強度などまで見抜かなければならなくなった。そこで、敢えて叫ぼう。

 「地学マニア」よ、助けてくれ!!
 「地学オタク(地学ヲタ)」よ、立ち上がれ!!

【時事】
◎20060104 「サウンドロゴ」は著作物? 作曲家が住友生命を提訴
◎20060104 ビフィズス菌、インフルエンザ予防に効く?
◎20060104 靖国問題「外国政府介入、理解できない」 首相年頭会見
◎20060105 シャロン首相、脳卒中で緊急手術 中東和平への影響必至

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[沈思黙考の記し(コラム)]2006年最初の書き込み Part. 3――【補遺】 <住>の末期症状

 箱根駅伝で亜細亜大学が総合優勝するという波乱を見届けてから、昨日書いたことを裏づける記事を発見したのでストックする。

<耐震偽造>「激」「慌」「恨」など住民が胸中を1文字で
 事件が発覚してから年末までの1カ月半の思いを、「グランドステージ」各マンションの住民計10人に、漢字1文字で表現してもらった。人生設計の激変を味わい「激」を挙げる住民のほか、「慌」「恨」など事件に振り回され苦しんだ住民たちの胸中が浮かび上がった。
 グランドステージ茅場町(東京都中央区)の男性(34)は「止」の字。「11月17日から家族の時間が止まってしまった。平穏を取り戻したい」と言葉に詰まりながら語った。同住吉(江東区)の男性(42)は「生」の字。「いろんな問題があっても生き抜いてみせる、へこたれないぞ」と語気を強めた。一方、同千歳烏山(世田谷区)の男性(54)は、いつ地震が来るかおびえる現状から「死」を選んだ。
 いまだに耐震強度が不明な同池上(大田区)の男性(56)は、12月22日になってやっと大田区が現地調査を実施した現状を憤り、「遅」を挙げた。「不安のままの年を越すしかなく、ストレスが相当たまっている」といら立つ心境を語った。【桐野耕一】
(毎日新聞) - 12月31日21時34分更新
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051231-00000036-mai-soci)


 本来、<住居>は安らぎを得る場所でなければならないのに、そこで「ストレスが相当たまっている」事態が起きることは、<住>の本来の意図から見事に外れている。すなわち、そこはもはや<住居>ではなく、<牢獄>である。そこから完全に出られるか、補強が終わることがない限り、過度のストレスが襲いかかる。関係者らの責任は重い(ただし、ここでの責任は災害などの「補償責任」ではなく、「損害賠償責任」であることに留意したい)。

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[沈思黙考の記し(コラム)]2006年最初の書き込み Part. 2――<住>の末期症状

 昨日、「グランドステージ稲城」へ赴いたことを書いた。あの騒動以降、マンションや住宅の工事現場や、テレビのコマーシャル・広告のチラシを見る度に「偽装してないだろうな」、「本当に大丈夫なの」と不安に駆られる。もはや、「いざ、栄光のグランドステージへ!!」などと言える状況ではない。
 2005年のJR福知山線列車脱線事故と同様のショックを受けたのも当然。電車にせよマンションにせよ、人の生活に密着している事柄だからだ。特にマンションは、人間の生活するための最も基本的な要素である<住>に関わっている。しかしながら、<住>を成り立たせるものはマンションのような<住居>だけではなく、近隣の駅・バス停やスーパー、幼稚園・学校、病院・診療所などといった生活基盤にまで及ぶ。これらの生活基盤の根幹の要素として<住居>が位置するのである。
 「グランドステージ●●」のショックは、その根幹の<住居>だけでなく、それに左右される生活基盤までも破壊した。2006年もこの余波はまだ続きそうだ。この「続きそうだ」と思われていることが本当に悲惨である。

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[沈思黙考の記し(コラム)]2005年最後の書き込み

 大晦日。ここら辺で誰かが必ず今年を振り返る内容の文章を書き上げるので、それに乗じて書く(ここで反旗を振り返ったとしても、余計に世間のブームを過剰に意識しているような文脈になってしまうので、敢えてぶちまけてしまおう)。
 今年は、今まで暗黙のうちに「当然だ」と了解されていた<社会の共通前提>が、見事に瓦解してきた年だった。「電車に乗っている中でも、マンションの中で安穏としていても死亡することが有り得る」と意識され、株騒動や郵政民営化を謳う政治では、重視すべき社会構想の基礎概念が「平等<公平>」から「自由<公正>」へとシフトした。
 <社会の共通前提>は言わば戦後日本が今まで築き上げてきた社会システムにおいて、システムに参加する人間が弁えておくべき振る舞い方として機能していた。その点で、日本では「電車やバスは時間通りにやって来る」のであり、建物は「地震に強い建物」に価値が置かれてきた(もっとも、建物については阪神淡路大震災以降、より耐震・免震意識が重視された)。
 メディアの影響をモロに受けているが、上記の共通前提の瓦解は、今の自分にとって、恐怖心を与えている。電車やマンション・住宅は生活をする上で最も基本的なものである。それらが「安全ではない」と認識されれば、どこで安全・安心を確保すればよいのかと不安になる。
 また、従来の社会構想の基礎概念の変更は、これからの社会に必要なものだと解する。従来の<平等>を基礎にした社会では負担しきれないため、<公正>な社会での負担や活動が求められるのである。そこでは失敗したときのアファーマティブアクションの実施の度合いが問題となろう。
 今年の<共通前提の瓦解>を、「別に新たな社会的合意である共通前提が求められている」ことの表れだと受け止め、2006年につながることを祈る。

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[沈思黙考の記し(コラム)]思考・理論の目的

 6日ぶりのオフ。どこにも行かずに家でPCと格闘する。折角の休日も数日後に控える期末試験のために作問作業に追われている。こういう時にこそ脳をフルに活用せねばならないのだが、思考回路は相変わらず機能しないし、読書すらできていないのだから最悪。でも暇あれば少しずつネタを溜めておいたので調整作業だけで済みそうなのが幸いである。あと2割弱で完成する。
 でも、頭を使っていないので、論理思考バカが持ちがちな(?)、悪しき「知識欲」というフラストレーションが溜まっている。今では、「現実の活動の行動パターンを整理・系統立て、活動をより円滑にするために、理論が役に立つのだ」と考えるようになった。そのための「理論」が未だ確固として持っていないのだから、少しでもネタやヒントが欲しい。何とかしたい。

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[沈思黙考の記し(コラム)]「集まれ!じゃんけんぽん!」と言われても集まる場所が問題だけどね。

 つい先程帰宅。練習試合会場へ行くために早朝から支度をして出発したが、予定よりも早く帰宅することができた。そのため、怒涛の体力勝負期間の1日目(!?)は何とか温存しながら終えそうだ。久々に心に「若干の余裕」(by 林家こん平)があるときに、世間では何事かが決まって起こるものだ。
<ハロウィーン>仮装450人が3両占拠 JR大阪環状線
 29日夜、JR大阪環状線の電車にハロウィーン(今月31日)の仮装をした外国人ら約450人が乗り込み、大阪環状線は最大約8分の遅れが生じた。インターネットなどでの呼びかけで集まった一団とみられ、3〜5両目を占拠し、その車両には2時間以上一般の乗客が乗れなかったという。5年以上前から同様の集団が同線に乗り込む騒ぎを起こしており、JR西日本はこの日、社員を増員、大阪府警鉄道警察隊も出動して、それぞれ警戒した。(以下省略)
(毎日新聞) - 10月30日3時7分更新
(「Yahoo!ニュース」[2005.10.30(Sun.)]、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051030-00000011-mai-soci

 仮装した外国人が450人も乗れば、この物騒な社会ではテロリスト集団かハロウィーンの伝統を尊重する何らかの団体か奇人集団の類と思われてしまう。でも、記事を読む限り、以前にも同様のことをしでかしたのならば、奇人集団の類というレッテルを貼られて警戒されることは予想できる(5年も続いていたのか、おいおい)。
 でも、同じ格好をした人間が大勢で電車などに乗車している姿を思い浮かべれば、その光景が異様に見えることが容易に想像できよう。

【時事】
 いままで溜まった分をまとめて。タイトルは色々な新聞記事より抜粋した。
◎20051026 <普天間移設>日米「沿岸案」で合意 米側が大幅譲歩
◎20051026 楽天 TBS株19.09%保有に 敵対的買収も視野 TBSは徹底抗戦へ
◎20051026 ロッテ、31年ぶり日本一
◎20051029 自衛軍を明記、戦争放棄は条項維持 自民が新憲法草案
◎20051030 ニューデリー 連続テロ120人死傷 市場など3カ所爆発

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[沈思黙考の記し(コラム)]則ってやっているんなら結局は誰が何を言おうが<問題>ないんだよ。

 7時起床。今日から怒涛の体力勝負が始まる。モロに体力づくりをしなかった分のツケを清算することになるだろう。ちょっとした頭痛がする中でネットサーフィンして見つけたネタを早速ストック。
正義目指す経済学とは 経済学者・セン教授が講演
 経済と正義、法との関係を考える国際学術集会「倫理・経済・法 不正義に抗して」が28日、立命館大(京都市北区)で始まり、アジアで初めてノーベル経済学賞を受賞したインド出身の経済学者、アマルティア・セン米国ハーバード大教授が、社会正義を目指す経済学のあり方について基調講演した。(以下省略)
(京都新聞) - 10月29日9時15分更新
(「Yahoo!ニュース」[2005.10.29(Sat.)]、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051029-00000010-kyt-l26

 大学の卒論でセンの理論について少々かじったが、大雑把に言えば<貧困は金銭面の欠如だけでなく、その人が社会との関係の中で構築してきた獲得手段や生活手段の損失によって起こる>と、権原との関係性の中で規定される(capabilityの問題)。
 色々あるのだが、市場経済の中で第一に規定されうるべきなのは<公正(正義)>であり、その上で不備が生じた時に補正すべきことを規定する<倫理>や<不平等の是正>が求められるべきだろう。
 そんな中で今回の記事のタイトルどおりのことが言えるのだ。実はこれって今話題の株式市場や企業買収問題にも関係する。法律に則って行われているのならば、結局は誰が何を言おうが違法性の問題は発生しない。むしろ倫理が問題にする次元は、<法律の正当性(法律が倫理的に理に適っているかどうか)>と、「その行為が可能なことを所与の事実とした時、どのように対応していくべきなのか」である。今起こった事実を<事実>として受け止めた上で、現実にどう行為するのかを考えねばなるまい。

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[沈思黙考の記し(コラム)]白帯は自分で作ってしまえばそれで十分なのだ。

 ダルさが取れない中、明日のネタ作りで苦しむ。使えそうな統計資料をDLし、何とか1時間分のネタはできたが、それ以降が続かず、どうしたものか。
 何とかしようとネットサーフィンしていれば、こんな記事を発見。早速ストック。
<ホワイトバンド>趣旨説明不足で購入者から批判
 世界的な貧困根絶キャンペーンに合わせて国内で300万個販売された腕輪「ホワイトバンド」に対し、購入者から批判が出ている。「売り上げの一部は貧困をなくすための活動資金となる」との触れ込みだったが、食料などを送るわけではなく、細かな使途も決まっていないため。事務局は「ホワイトバンドは『貧困をなくす政策をみんなで選択する』意思表示が狙い。分かりにくかったかもしれない」と説明し、店頭で、募金活動ではないことを強調する表示を始めた。(以下省略)
(「Yahoo!ニュース」[2005.10.24]、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051024-00000025-mai-soci

 これは明らかなPR・広報活動の失敗。活動自体に十分な意義があるのだから、初めから説明しておけばよかっただけのこと。ただ、こういうチャリティーイベントは最低限の必要経費の確保は不可欠で、このための地道な広報活動や営業活動がキーとなっている。NPOやNGOなど市民団体だからと言って、金が降ってくるわけではない。そういう意味で言えば、NPOやNGOなど市民団体の渉外・営業活動は一般企業並み(むしろそれ以上)に厳しいのである。
 余談だが、某テレビ局のチャリティー系番組なんかも、ノーギャラで出演させるくらいすれば、その意義も増すだろうに。

【時事】
◎日本シリーズ、ロッテ2連勝(2005.10.23[Sun.])
◎米国産牛肉 年内にも輸入再開の見通し(2005.10.24[Mon.])

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[沈思黙考の記し(コラム)]カトリーナ被害で考える

 先日アメリカのニューオーリンズを襲った大型ハリケーン「カトリーナ」の被害は現在も拡大の一途を辿っている。被害者の大半は貧困層の人々であり、彼らは「災害弱者」となりやすい。
 ここでメモしておくことは「貧困」の構造である。以下、アマルティア=センの『貧困と飢饉』の議論を参照する。
 センは貧困を「生きる権利を獲得する手段を失うこと」と考え、<食糧権原>の喪失と規定した。貧困層が生活するための食糧を得る手段は、漁労や農業などの単一な一次産業であるとセンは考えたが、今回の災害でも、貧困層は生活のための労働手段(商売道具、トラック、店、レジなど商売に必須な道具)を失ったことにより、生活のための権利を行使する根拠をも失ってしまった。つまり、貧困層は権利を得るための手段が非常に乏しいが故に、手段を失ってしまっては、自力ではもう、どうすることもできない。
 このような場合、力のある者達の手によって救い出すしかない。食糧権限を失った彼らには、もはや助かる力すらないのだから。

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[沈思黙考の記し(コラム)]−(気温×湿度)∝(思考状態)

 定期券を買いに駅へ。駅までバスで行かねばならぬから、気温と湿度が上昇するのと反比例して外出する気力が低下する。だからと言って買わぬわけにも行かぬので渋々買いに外出する。
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